当サイトではJavaScriptを使用しております。 JavaScriptをONにして再読み込みを行ってください。
「画像検索」で別カットの画像をさがす
趙之謙(1829-1884、字は益甫・撝叔、号は冷君・悲盦・梅庵・憨寮・无悶・二金蜨堂など)は、清末の書家・画家・篆刻家。呉昌碩(1844-1927)、斉白石(1864-1957)をはじめ後世に大きな影響を与えた清末最大の芸術家で、書は篆書をはじめ五体すべてにわたり、独自色を発揮した。 楷書は特に北魏書に学び、包世臣(1775-1855)の「逆入平出」の筆法を応用して力強く重厚な作風を生み出した。 本品は趙之謙が進士試験の準備のため、北京に上京した頃の書である。趙之謙は同治2年(1863)から同4年までの北京での生活の間、胡澍(1825-1872)や沈樹鏞(1832-1873)、魏錫曽(?-1881)らと出会い、当時脚光を浴びていた金石学に没頭したことで、それまで鄧石如(1743-1805)の法によった篆隷や、顔真卿の法によった行楷を書いていた趙之謙の作風は大きく変化し、北魏時代の書に傾倒した。 <松浦晃佑執筆, 2026>
画像のご利用について
前のページへ戻る
ページの先頭へ戻る
趙之謙(1829-1884、字は益甫・撝叔、号は冷君・悲盦・梅庵・憨寮・无悶・二金蜨堂など)は、清末の書家・画家・篆刻家。呉昌碩(1844-1927)、斉白石(1864-1957)をはじめ後世に大きな影響を与えた清末最大の芸術家で、書は篆書をはじめ五体すべてにわたり、独自色を発揮した。
楷書は特に北魏書に学び、包世臣(1775-1855)の「逆入平出」の筆法を応用して力強く重厚な作風を生み出した。
本品は趙之謙が進士試験の準備のため、北京に上京した頃の書である。趙之謙は同治2年(1863)から同4年までの北京での生活の間、胡澍(1825-1872)や沈樹鏞(1832-1873)、魏錫曽(?-1881)らと出会い、当時脚光を浴びていた金石学に没頭したことで、それまで鄧石如(1743-1805)の法によった篆隷や、顔真卿の法によった行楷を書いていた趙之謙の作風は大きく変化し、北魏時代の書に傾倒した。
<松浦晃佑執筆, 2026>
画像のご利用について