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北山寒巌(馬孟煕、1767-1801)は明末に長崎に渡った明人・馬栄宇(?-1654)の子孫で、画家・北山晋陽(馬道良、?-1801)の子として江戸麻布に生まれた。真崎稲荷神社の神主を務める一方で、漢画や洋風画に優れ、谷文晁や田能村竹田等に影響を与えた。 寒巌は、しばしは輸入洋書の挿絵を元に洋風画を制作しており、とくに本図は、杉田玄白・大槻玄沢等訳『瘍医新書』(1825年刊行)の原書で、江戸時代後期の蘭学者が重視したハイステル『外科学』(オランダ語訳版、1755年刊行)の口絵が典拠である。寒巌は、これをもとに本図と「ハイステル像」(神戸市立博物館蔵)の2点を制作したが、本図は神戸市博本に先行する一種の画稿として制作されたとみられる。その本図には皇紀2449年(寛政元年、1789)の制作年が記されており、早逝した画家の数少ない基準作として誠に貴重である。 また寒巌は岡藩の画家・渡邊蓬島(1753-1835)に送った書簡に、石状でそのまま描画できる稀少な舶載の赤色絵具「コルウド」を所持すると記しており、それが本図の画材と合致することも注目に値する。 江戸時代の後期にかけて、石川大浪(1762-1818)などの洋風画家が、蘭学者の求めに応じハイステル像、ヒポクラテス像、プレンク像など西洋医学者の肖像画を制作するが、本図はその先駆的作例として歴史的に重要である。 <畑靖紀執筆, 2026>
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北山寒巌(馬孟煕、1767-1801)は明末に長崎に渡った明人・馬栄宇(?-1654)の子孫で、画家・北山晋陽(馬道良、?-1801)の子として江戸麻布に生まれた。真崎稲荷神社の神主を務める一方で、漢画や洋風画に優れ、谷文晁や田能村竹田等に影響を与えた。
寒巌は、しばしは輸入洋書の挿絵を元に洋風画を制作しており、とくに本図は、杉田玄白・大槻玄沢等訳『瘍医新書』(1825年刊行)の原書で、江戸時代後期の蘭学者が重視したハイステル『外科学』(オランダ語訳版、1755年刊行)の口絵が典拠である。寒巌は、これをもとに本図と「ハイステル像」(神戸市立博物館蔵)の2点を制作したが、本図は神戸市博本に先行する一種の画稿として制作されたとみられる。その本図には皇紀2449年(寛政元年、1789)の制作年が記されており、早逝した画家の数少ない基準作として誠に貴重である。
また寒巌は岡藩の画家・渡邊蓬島(1753-1835)に送った書簡に、石状でそのまま描画できる稀少な舶載の赤色絵具「コルウド」を所持すると記しており、それが本図の画材と合致することも注目に値する。
江戸時代の後期にかけて、石川大浪(1762-1818)などの洋風画家が、蘭学者の求めに応じハイステル像、ヒポクラテス像、プレンク像など西洋医学者の肖像画を制作するが、本図はその先駆的作例として歴史的に重要である。
<畑靖紀執筆, 2026>
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