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有栖川宮職仁(よりひと)親王(1713-69)が『和漢朗詠集』所収の漢詩と和歌を書写したもの。職仁親王は、霊元天皇の第17皇子で、後西天皇の孫の正仁(ただひと)親王が嗣子なく薨じたことをうけ、有栖川宮家を継承した。歌道に優れたほか、父・霊元天皇の書風を受け継ぎ、有栖川流を創始した。 職仁親王は、霊元天皇の力強く、おおらかな書風を受け継ぎながらも、より典麗な書風を展開し、本品においても十分に発揮している。本品は、『和漢朗詠集』所収の漢詩と和歌を正確に全てを書写する目的ではなく、手本として書写されたものだと考えられる。 箱蓋裏の墨書によると、歌人・古筆研究家の大口鯛二(1864-1920)が大正7年(1918)に閲覧したことがわかる。
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有栖川宮職仁(よりひと)親王(1713-69)が『和漢朗詠集』所収の漢詩と和歌を書写したもの。職仁親王は、霊元天皇の第17皇子で、後西天皇の孫の正仁(ただひと)親王が嗣子なく薨じたことをうけ、有栖川宮家を継承した。歌道に優れたほか、父・霊元天皇の書風を受け継ぎ、有栖川流を創始した。
職仁親王は、霊元天皇の力強く、おおらかな書風を受け継ぎながらも、より典麗な書風を展開し、本品においても十分に発揮している。本品は、『和漢朗詠集』所収の漢詩と和歌を正確に全てを書写する目的ではなく、手本として書写されたものだと考えられる。
箱蓋裏の墨書によると、歌人・古筆研究家の大口鯛二(1864-1920)が大正7年(1918)に閲覧したことがわかる。
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