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本品は天正15年(1587)6月15日付、宗義調・宗義智宛に発給された豊臣秀吉の領知宛行状である。同年5月に九州平定を終え、筥崎に在陣する秀吉のもとに、6月に義調と義智が「父子」と称して伺候した。ここで宗氏の秀吉への服属が確定し、本品によって、対馬一国が安堵されたのであった。本品と同時にもう一通発給された判物には、朝鮮への出兵について記されていることはよく知られている。 本品は、江戸時代に対馬藩主の「奥御判物長持」で保管されていた。文化13年(1816)の長持整理の際に作成された帳簿「奥御判物長持之内ニ御書物写」に、本品が書写されている。帳簿にはこの写しに続いて、「右御料紙那須大高一枚折」と記載があり、料紙が那須の大高檀紙(程村紙)、この時点では未装丁(折紙)であったことがわかる。 明治に入って、「宗家文書」の一部は東京に移送された。移送後の「宗家文書」を調査した武田勝蔵は、論考「伯爵宗家所蔵豊公文書と朝鮮陣」にて本品を紹介している。大正15年(1926)、宗伯爵家は宗家に伝わった秀吉関係文書や徳川家康関係文書を朝鮮総督府朝鮮史編修会に売却しており、その中に本品が含まれていたと考えられる。本品を朝鮮史編修会で撮影したときのガラス乾板が、韓国・国史編纂委員会に保管されている。ガラス乾板と本品を比較すると、筆跡や虫損の位置も同一である。 豊臣秀吉の九州平定後、対馬の宗氏を従え、朝鮮出兵へと進み始める段階の一次史料として、重要な史料である。
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本品は天正15年(1587)6月15日付、宗義調・宗義智宛に発給された豊臣秀吉の領知宛行状である。同年5月に九州平定を終え、筥崎に在陣する秀吉のもとに、6月に義調と義智が「父子」と称して伺候した。ここで宗氏の秀吉への服属が確定し、本品によって、対馬一国が安堵されたのであった。本品と同時にもう一通発給された判物には、朝鮮への出兵について記されていることはよく知られている。
本品は、江戸時代に対馬藩主の「奥御判物長持」で保管されていた。文化13年(1816)の長持整理の際に作成された帳簿「奥御判物長持之内ニ御書物写」に、本品が書写されている。帳簿にはこの写しに続いて、「右御料紙那須大高一枚折」と記載があり、料紙が那須の大高檀紙(程村紙)、この時点では未装丁(折紙)であったことがわかる。
明治に入って、「宗家文書」の一部は東京に移送された。移送後の「宗家文書」を調査した武田勝蔵は、論考「伯爵宗家所蔵豊公文書と朝鮮陣」にて本品を紹介している。大正15年(1926)、宗伯爵家は宗家に伝わった秀吉関係文書や徳川家康関係文書を朝鮮総督府朝鮮史編修会に売却しており、その中に本品が含まれていたと考えられる。本品を朝鮮史編修会で撮影したときのガラス乾板が、韓国・国史編纂委員会に保管されている。ガラス乾板と本品を比較すると、筆跡や虫損の位置も同一である。
豊臣秀吉の九州平定後、対馬の宗氏を従え、朝鮮出兵へと進み始める段階の一次史料として、重要な史料である。
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