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オランダ出身のカルヴァン派宣教師で歴史学者のアルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625?-1683)の著作。副題は読者の興味を引く事項が列挙され、内容の網羅性を強調している。『東インド会社遣日使節紀行』は、出版業者ヤーコブ・ファン・メウルスがベストセラーを狙ってモンタヌスに執筆を依頼したものであった。本書は1669年にアムステルダムで刊行された初版本(オランダ語版)である。 モンタヌスは来日経験がないものの、ポルトガルやスペインのカトリック宣教師の報告書をはじめ、1650-60年代のオランダ東インド会社職員による複数の江戸参府日記を編纂し、本書を著した。本書は2部構成で、4つの使節団の参府日記と1つの報告が掲載される。第1部にはアンドレアス・フリシウスによる1649年から50年の江戸参府日記が、第2部にはウィルヘルム・バイルフェルトによる1643年の「ブレスケンス号事件」の報告、ザハリアス・ワーヘナールによる1657年と1659年の江戸参府日記、ヘンドリック・インダイクによる1660年から61年の江戸参府日記、ファン・ゼルデレンによる江戸参府日記が収められている。これらの日記は東インド会社の機密文書であったが、メウルスもしくはモンタヌスが日記の写しを入手した。ただし、ファン・ゼルデレンは詳細不明の人物で、モンタヌスはその日記の日付を記していないので、いつの参府なのか不明である。 「鎖国」後、ヨーロッパにもたらされる日本情報は限定的になったが、本書はこれらの記録や、1619年から1641年までオランダ商館で勤務したフランソワ・カロンの『日本大王国志』の情報を網羅したものであり、エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』が登場する以前のヨーロッパにおける代表的な日本に関する著作と位置付けられる。1669年にアムステルダムでオランダ語版が出版されると、同年ドイツ語版が刊行され、引き続いて1670年に英語版、1680年にフランス語版も刊行されたことがその証左である。 本書のもう一つの特徴は、銅版の挿図の豊富さである。本書の挿図は97点あり、長崎・江戸の往復の道程に沿った視覚的な叙述を可能にしており、読者に臨場感を与えている。これら挿図は、商館員のスケッチをもとに、デフォルメしたものである。挿図のいくつかに銅版画家の「S.C.Mtis」のサインがあるが、不詳である。本書の図版は後世の著作に影響を与えている。例えば、「兵士」など4点の図版は、シャルルヴォア『日本の歴史』(1736年刊行、P14995)に引用される。また、「地獄の湯沸かし(雲仙地獄)」の図版は、現代において、キリシタン弾圧の図として紹介されるものである。 モンタヌスは来日経験がなく、また図版はデフォルメされたものとはいえ、日本情報を網羅的にまとめ、視覚的な叙述に成功した本書は、ケンペル『日本誌』が出版されるまで、日本情報のヨーロッパでの伝達に大きな影響を及ぼしたといえる。
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オランダ出身のカルヴァン派宣教師で歴史学者のアルノルドゥス・モンタヌス(Arnoldus Montanus、1625?-1683)の著作。副題は読者の興味を引く事項が列挙され、内容の網羅性を強調している。『東インド会社遣日使節紀行』は、出版業者ヤーコブ・ファン・メウルスがベストセラーを狙ってモンタヌスに執筆を依頼したものであった。本書は1669年にアムステルダムで刊行された初版本(オランダ語版)である。
モンタヌスは来日経験がないものの、ポルトガルやスペインのカトリック宣教師の報告書をはじめ、1650-60年代のオランダ東インド会社職員による複数の江戸参府日記を編纂し、本書を著した。本書は2部構成で、4つの使節団の参府日記と1つの報告が掲載される。第1部にはアンドレアス・フリシウスによる1649年から50年の江戸参府日記が、第2部にはウィルヘルム・バイルフェルトによる1643年の「ブレスケンス号事件」の報告、ザハリアス・ワーヘナールによる1657年と1659年の江戸参府日記、ヘンドリック・インダイクによる1660年から61年の江戸参府日記、ファン・ゼルデレンによる江戸参府日記が収められている。これらの日記は東インド会社の機密文書であったが、メウルスもしくはモンタヌスが日記の写しを入手した。ただし、ファン・ゼルデレンは詳細不明の人物で、モンタヌスはその日記の日付を記していないので、いつの参府なのか不明である。
「鎖国」後、ヨーロッパにもたらされる日本情報は限定的になったが、本書はこれらの記録や、1619年から1641年までオランダ商館で勤務したフランソワ・カロンの『日本大王国志』の情報を網羅したものであり、エンゲルベルト・ケンペル『日本誌』が登場する以前のヨーロッパにおける代表的な日本に関する著作と位置付けられる。1669年にアムステルダムでオランダ語版が出版されると、同年ドイツ語版が刊行され、引き続いて1670年に英語版、1680年にフランス語版も刊行されたことがその証左である。
本書のもう一つの特徴は、銅版の挿図の豊富さである。本書の挿図は97点あり、長崎・江戸の往復の道程に沿った視覚的な叙述を可能にしており、読者に臨場感を与えている。これら挿図は、商館員のスケッチをもとに、デフォルメしたものである。挿図のいくつかに銅版画家の「S.C.Mtis」のサインがあるが、不詳である。本書の図版は後世の著作に影響を与えている。例えば、「兵士」など4点の図版は、シャルルヴォア『日本の歴史』(1736年刊行、P14995)に引用される。また、「地獄の湯沸かし(雲仙地獄)」の図版は、現代において、キリシタン弾圧の図として紹介されるものである。
モンタヌスは来日経験がなく、また図版はデフォルメされたものとはいえ、日本情報を網羅的にまとめ、視覚的な叙述に成功した本書は、ケンペル『日本誌』が出版されるまで、日本情報のヨーロッパでの伝達に大きな影響を及ぼしたといえる。
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