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呉昌碩(1844-1927、もとの名は俊、後に俊卿。字ははじめ香圃、1912年に昌碩とする。別字に蒼石・倉石・倉碩。号に缶廬・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など)は、清代末期から中華民国初期にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通した芸術家と評価が高い。書は長らく「石鼓文」を温習し、篆書に独自の作風を開拓した。 本品は、識語から1923年、呉昌碩80歳のときに揮毫したもの。晩年に至ってさらに制作活動を盛んにしていた呉昌碩の、気力あふれる充実した筆線が見て取れる。呉昌碩と交流があり、上海で個人病院を開設していた日本人医師、頓宮寛(トングウユタカ、1884-1974)から揮毫を依頼されたものである。 <松浦晃佑執筆, 2026>
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呉昌碩(1844-1927、もとの名は俊、後に俊卿。字ははじめ香圃、1912年に昌碩とする。別字に蒼石・倉石・倉碩。号に缶廬・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など)は、清代末期から中華民国初期にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通した芸術家と評価が高い。書は長らく「石鼓文」を温習し、篆書に独自の作風を開拓した。
本品は、識語から1923年、呉昌碩80歳のときに揮毫したもの。晩年に至ってさらに制作活動を盛んにしていた呉昌碩の、気力あふれる充実した筆線が見て取れる。呉昌碩と交流があり、上海で個人病院を開設していた日本人医師、頓宮寛(トングウユタカ、1884-1974)から揮毫を依頼されたものである。
<松浦晃佑執筆, 2026>
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