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呉昌碩(1844-1927、もとの名は俊、後に俊卿。字ははじめ香圃、1912年に昌碩とする。別字に蒼石・倉石・倉碩。号に缶廬・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など)は、清代末期から中華民国初期にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通した芸術家と評価が高い。 呉昌碩は、書は長らく「石鼓文」を温習し、篆書に独自の作風を開拓した。本品は、跋文から光緒7年(1881)に呉昌碩が「若波先生」のために書いたものとわかる。この頃、生涯、師としての礼をとった楊峴(1819-1896)と出会い、また呉雲(1811-1883)などと交流を深めた。本品は素紙に「古詩十九首」其五を篆書で揮毫する。料紙に朱線の枠を設け、枠内に一字ずつ書く。多くの刺激を受けながら、筆を執っていた時期の作品として評価できる。 <松浦晃佑執筆, 2026>
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呉昌碩(1844-1927、もとの名は俊、後に俊卿。字ははじめ香圃、1912年に昌碩とする。別字に蒼石・倉石・倉碩。号に缶廬・苦鉄・破荷・大聾・老蒼・石尊者・石人子・石敢当・破荷亭長・蕪青亭長・五湖印丐など)は、清代末期から中華民国初期にかけて活躍した画家・書家・篆刻家。清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通した芸術家と評価が高い。
呉昌碩は、書は長らく「石鼓文」を温習し、篆書に独自の作風を開拓した。本品は、跋文から光緒7年(1881)に呉昌碩が「若波先生」のために書いたものとわかる。この頃、生涯、師としての礼をとった楊峴(1819-1896)と出会い、また呉雲(1811-1883)などと交流を深めた。本品は素紙に「古詩十九首」其五を篆書で揮毫する。料紙に朱線の枠を設け、枠内に一字ずつ書く。多くの刺激を受けながら、筆を執っていた時期の作品として評価できる。
<松浦晃佑執筆, 2026>
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