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縁と頭は、ともに刀剣類の柄を補強し柄巻を安定させるために用いる一対の刀装具である。古くは角製のものが多かったが、江戸時代になると金属製のものが主体となり、さまざまな技法を駆使して多種多様な意匠があらわされた。銘に切られた大森英秀(一涛斎、龍雨斎、1730-98)は、町彫の創始者として知られる初代横谷宗珉の門人大森英昌(1705-72)の養子で、江戸を代表する金工師のひとりとして知られる。大森派のなかでも名工として名高く、英秀の名は天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』のほか『江都金工名譜』(1810)、『金工名譜』(1842)、『鏨工譜略』(1844)など江戸後期に活躍した金工師を紹介した各書にその名がみえる。英秀が得意としたのは、蒔絵風の梨地象嵌と「大森波」とも呼ばれた鋤下彫による波涛図である。特に後者は、高く表現したい主文様を残してその周囲の地板を掘り下げることで図様を立体的にあらわす技法で、英秀はこの高度な彫技を考案し、立体感のある波涛図を表現した。本品でも頭の平や縁の腰にはこの技法によって波涛が彫られるとともに、波間を泳ぐ龍があらわされている。 <望月規史執筆, 2024>
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縁と頭は、ともに刀剣類の柄を補強し柄巻を安定させるために用いる一対の刀装具である。古くは角製のものが多かったが、江戸時代になると金属製のものが主体となり、さまざまな技法を駆使して多種多様な意匠があらわされた。銘に切られた大森英秀(一涛斎、龍雨斎、1730-98)は、町彫の創始者として知られる初代横谷宗珉の門人大森英昌(1705-72)の養子で、江戸を代表する金工師のひとりとして知られる。大森派のなかでも名工として名高く、英秀の名は天明元年(1781)刊行の『装剣奇賞』のほか『江都金工名譜』(1810)、『金工名譜』(1842)、『鏨工譜略』(1844)など江戸後期に活躍した金工師を紹介した各書にその名がみえる。英秀が得意としたのは、蒔絵風の梨地象嵌と「大森波」とも呼ばれた鋤下彫による波涛図である。特に後者は、高く表現したい主文様を残してその周囲の地板を掘り下げることで図様を立体的にあらわす技法で、英秀はこの高度な彫技を考案し、立体感のある波涛図を表現した。本品でも頭の平や縁の腰にはこの技法によって波涛が彫られるとともに、波間を泳ぐ龍があらわされている。
<望月規史執筆, 2024>
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