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本品は6月3日付、宗貫老宛、本阿弥光悦の書状である。宗貫老からの書状と塩漬けの雲雀を受領したことへの謝意を伝える。宗貫は、京都の針屋宗貫か、堺の萬代屋(もずや)宗貫と推定されるが不詳である。 光悦の書風は、基本的には線の肥痩を巧みに用い、漢字と仮名が力強い調和を見せるのが特徴であるが、時期によって大きく二つの書き振りに分けられている。一つは慶長期のもので、筆を立てて、筆先が線の中心を通るような書き方である。もう一つは元和期以降のもので、筆を傾けて、線の片方に筆先が偏る書き方、つまり側筆が現れる筆遣いである。この書き方は寛永期により多く見られる。側筆に変化したきっかけは、張即之の書を学んだとも、中風を患ったためとも言われる。 本品の書風は、かすれが目立ち、側筆を用いているが、行間や字間、字形はあまり乱れていないため、元和の頃の染筆であると推測される。
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本品は6月3日付、宗貫老宛、本阿弥光悦の書状である。宗貫老からの書状と塩漬けの雲雀を受領したことへの謝意を伝える。宗貫は、京都の針屋宗貫か、堺の萬代屋(もずや)宗貫と推定されるが不詳である。
光悦の書風は、基本的には線の肥痩を巧みに用い、漢字と仮名が力強い調和を見せるのが特徴であるが、時期によって大きく二つの書き振りに分けられている。一つは慶長期のもので、筆を立てて、筆先が線の中心を通るような書き方である。もう一つは元和期以降のもので、筆を傾けて、線の片方に筆先が偏る書き方、つまり側筆が現れる筆遣いである。この書き方は寛永期により多く見られる。側筆に変化したきっかけは、張即之の書を学んだとも、中風を患ったためとも言われる。
本品の書風は、かすれが目立ち、側筆を用いているが、行間や字間、字形はあまり乱れていないため、元和の頃の染筆であると推測される。
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