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慶長3年(1598)1月30日付、太田一吉(?~1617)宛、徳川家康(1542~1616)の書状。太田一吉は、慶長の役(丁酉倭乱)にて、総大将格の小早川秀俊(秀秋)(1582~1602)の目付として朝鮮に渡海した。慶長2年10月頃、加藤清正(1562~1611)らにより蔚山で築城が開始されるが、明・朝鮮軍は蔚山城を攻撃、太田は籠城を開始した。年が明け、1月2日、黒田らの援軍が到着、4日に明・朝鮮軍は撤退した。太田は慶長2年の末、家康に籠城の旨を伝えたと見え、家康は本書状で太田が蔚山城を堅く守ったことを称賛する。一方、家康自身は、慶長2年末に暇を下されて江戸に逗留中だが、近々上洛することを伝えている。本書状によって、慶長の役での蔚山城籠城の様子を垣間見ることができる。
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慶長3年(1598)1月30日付、太田一吉(?~1617)宛、徳川家康(1542~1616)の書状。太田一吉は、慶長の役(丁酉倭乱)にて、総大将格の小早川秀俊(秀秋)(1582~1602)の目付として朝鮮に渡海した。慶長2年10月頃、加藤清正(1562~1611)らにより蔚山で築城が開始されるが、明・朝鮮軍は蔚山城を攻撃、太田は籠城を開始した。年が明け、1月2日、黒田らの援軍が到着、4日に明・朝鮮軍は撤退した。太田は慶長2年の末、家康に籠城の旨を伝えたと見え、家康は本書状で太田が蔚山城を堅く守ったことを称賛する。一方、家康自身は、慶長2年末に暇を下されて江戸に逗留中だが、近々上洛することを伝えている。本書状によって、慶長の役での蔚山城籠城の様子を垣間見ることができる。
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